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高倉健の「単騎千里を走る」はまちづくりに似て

 映画「単騎千里を走る」を観た。ストーリーはこうだ。10年こころを閉ざしていた息子が末期癌とわかった。父親の高倉健は「今、自分にできることはこれしかない」と、TVディレクターだった息子のやり残した仕事、中国雲南省の辺境に住む男の仮面舞踏を息子に見せるため撮影の旅に出る。

 しかし、撮影は困難を極める。出会えた男は刑務所に入っており、山岳の村に居るまだ見ぬ息子に会わねば踊れないと泣く。青洟を垂らして泣く。高倉は日本語も通じぬ山岳の村にたどり着き、男の8歳の息子を連れてまちに戻ろうとする帰途、山道で男の子やんやんは車から逃げ出し、追った高倉とともに道に迷ってしまう。

 山水画のような険しい山で二人は一晩を過ごす。やんやんは便意をもよおし、可愛いおしりをだしておしっことうんちをする。その全てをカメラは追う。画面ではこの排便を携帯で映す高倉。「なに映してんだよ」という子どもと「くせえなあ」と鼻をつまんでみせる高倉。ふたりは苦笑いし、言葉は通じなくても、初めて通じ合う。助けられた朝、高倉は村長に「やんやんはまだ、父親に会う心の準備ができていない。まだ会うのが嫌だから逃げたんだ。まちに連れていくのはやめます」と告げて去る。最後に子どもを抱きしめて。

 結末にはもう少しあるのだが、中国の俳優は素人同然。素朴な人間群像と健さんの押さえた演技はドキュメンタリーを観た錯覚を起こさせる。日本語も通じぬ国で千里を走るプロセスで息子と自分の関わりを見つけ直す主人公。中国人の監督は青洟とか、こどものうんちとか日本人だったら映さない人間の匂いを映像にする。いつか菅原文太が「われわれのやってきたつくりものの映画の時代は終わった。これからはもっとありのままの時代だ」と言うのを聞いた。まちづくりも言葉の通じないヒトの間を右往左往しながら計画は変更の連続。子どものうんちとは言わないけれど、お互いにそういうものを出し合って、やっと仲間に入れてもらえてなにかが動く。そんな意味でこの映画、まちづくりだし、世の中の縮図かもしれない。監督と健さんはすごい奴だ。

[2015.02.26]